前回のおさらい |
スピリチュアリズムは「真善美」を柱とした思想です。その「真実」にスポットを当て、ISIL(イスラム国)が生まれた理由を解説する第2回目です。
前回のブログでは、ISILを生み出す切っ掛けになったユーロとイラク戦争について解説しました。
2000年9月。フセイン大統領は、
「石油の取引を、ドル建てからユーロへと転換する」
と宣言しました。
石油などのエネルギー市場では、大きなお金が動きます。その決済が米ドルで無くなってしまったら、米ドルは基軸通貨の座から転落してしまいます。するとアメリカに残るのは、莫大な負債のみになってしまいます。
それを恐れたアメリカは、基軸通貨の座を守るため、戦争をしかけました。つまり、「イラクは大量破壊兵器を保持している」と言っていたのは、単なる言いがかりで、戦争を仕掛ける口実に過ぎなかったのです。
今回は、イラクが石油のユーロ建てを宣言した経緯を知るため、少し時を遡って、イラン・イラク戦争と湾岸戦争を中心に解説したいと思います。
隣の国イランで革命が起こった |
1979年2月に隣の国イランで、イラン・イスラム革命が起きました。この革命は、経済的に不満を持っていたイラン国民が、ホメイニ師(イスラム教シーア派)を筆頭に起こした革命です。
当時は東西冷戦真っただ中。アメリカと旧ソ連を中心に、世界は2つに分かれて戦争をしていました。ただし、アメリカと旧ソ連は直接には戦争をしません。お互いに核兵器を持っているので、下手に攻撃をすると核戦争になり、世界が大混乱になるからです。その代わり、両国の代理戦争が世界各地で起きていました。
これは民主主義と社会主義の戦争でした。アメリカと旧ソ連は、それぞれ味方の国に、武器や金銭的援助をしました。同じ主義の国が増えれば、経済・軍事の上で有利になるからです。
さて、経済や軍を動かすにはエネルギーが必要です。ロシアは石油やガスなどの天然資源が豊富なので、エネルギーを自国で賄う事が出来ますが、アメリカはそれが出来ません。その為アメリカは、石油を安定的に確保する必要がありました。
石油がたくさん出る国は、アメリカにとって大切な取引相手です。イランは石油がたくさん出る為、その「大切な取引相手」の一つでした。石油貿易により、イラン王族やイラン国内の外資系企業は大きな利益を得ていました。しかし利益を独占した為、国民の多くは貧しく、貧困に苦しんでいました。イランのイスラム教指導者であるホメイニ師は、親米路線によりイスラム文化が崩壊していくの事に、当初から警鐘を鳴らしていました。
例えばミニスカートの文化が、イランに入って来ました。イスラム教において女性は、自分の家族以外に肌を見せてはいけません。イスラム教にとって女性は守るべき対象だからです。ですからミニスカートなど言語道断のファッションでした。
イラン国民の大部分は、イスラム教シーア派です。シーア派はスンニ派に比べ戒律がゆるく、割と柔軟なのが特徴です。そのためイランでは急速な欧米化が進み、イスラム文化はどんどん姿を消していきます。イランのイスラム指導者たちにとって、それは実に耐え難い事でした。
そのため、イスラム文化を守る「宗教的要素」と、国民の「経済的要因」があわさって、イラン・イスラム革命が起きました。この革命でイランの王政は倒れ、イスラム教シーア派が政権の主導を握ります。
混乱しているイランを見て、フセインはチャンスだと思った |
1980年9月22日。イラン・イラク戦争が起きました。当初からイランとイラクは、シャットゥルアラブ川流域の領土と航行権を巡り、争っていました。両国の間を流れるこの川は、軍事的にも経済的にも重要な位置にあったからです。イラン革命の混乱を好機とみたイラクは、アメリカの支援を得て戦争を仕掛けました。
アメリカとしても、この戦争は重要でした。イランに混乱が生じると、石油の供給に不安が生じます。またイラン世論が反米である事実と理由がバレると、国際社会で主導権を握るのが難しくなるため、早急に事態を収拾する必要がありました。以後この戦争は長期化し、1988年8月20日にようやく国際連合安全保障理事会の決議をもって停戦を迎えます。この戦争に参加した国は以下の通りです。
イランの味方 |
・クルド人
国家を持たない世界最大の民族で、イラクの北部に住んでいます。イラクの他にトルコ・シリア北東部・イラン北西部など中東の国境をまたがって広く分布します。イラク北西部のクルド人は、イラクから独立したいと強く願っています。
クルド人はオスマン帝国に広く分布していた民族です。オスマン帝国は第一次世界大戦後、イギリスとフランスにより分割、統治されました。つまりは植民地です。その結果クルド人も、恣意的に引かれた国境線により、無理やり民族を分断されてしまいました。
クルド人の信仰宗教は、多くがイスラム教スンニ派です。ただしイラク北西部の山岳地帯では、民族宗教であるヤジディ教が信仰されています。
・シリア
イラクと敵対関係にあるため、イランに味方しました。シリアとイラクは同じバース党による政治体制です。バース党とは、国境を越えたアラブ地域内の民族政党です。アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則としています。しかし、それぞれの国における地位を確立するため、国境を越えた連携は疎かになりました。その結果、シリアとイラクは良好な利害関係を築けず、敵対関係となりました。
イスラム教における宗派も、イランに味方した理由の一つです。シリア国民の多くは、イスラム教スンニ派でした。しかし、当時の大統領ハーフィズ・アル=アサド(バッシャール・アル=アサド大統領の父親)はシーア派の系統であるアラウィー派でした。イランはシーア派の国ですので、同じ宗派の国を味方する事は自然の流れでした。
イラン・イラク戦争に於いてシリアは、地政学的に重要な位置にありました。イラクはパイプラインを使い、ヨーロッパに石油を輸出していましたが、そのパイプはシリアの国内を通ってヨーロッパに繋がっていました。戦時中はシリアがこのパイプを停止させたため、イラクは財政面で大きなダメージを受けます。
※アラウィー派は、一応シーア派の系統ですが、元来イスラム教には無い輪廻転生を取り入れている為、イスラム教の中では異端な存在とされています。
・リビア
アメリカと敵対関係にあるため、イランに味方しました。リビアは北部に位置するシドラ湾をリビアの領海であると主張していましたが、アメリカはこの主張を認めませんでした。
リビアはソ連と密接な関係を築いており、東西冷戦下でソ連と緊張状態にあったアメリカにとって、リビアは敵だったのです。そのため、「シドラ湾はリビア領海である」と認めると、地中海に於いてアメリカの軍事活動に制限を受ける事になります。その為アメリカは、リビアの主張を認めませんでした。
・イスラエル
イスラエルはユダヤ教の国です。国内にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとっての聖地があります。イスラエルの周りはイスラム教の国ですので、周りの国にとってイスラエルは異質な存在であり、イスラム教の聖地を占拠している国でもあります。その為、近隣の国に攻め込まれる危険がありました。
ユダヤ人の歴史は苦難に満ちたものでした。第2次ユダヤ戦争(起源132‐135)でローマ帝国に敗北したユダヤ人は、イスラエルを追われ世界中に散っていきます。国を失い流浪の民となったユダヤ人は、イエス・キリストを処刑した民族でもあったため、歴史の中で常に迫害され続けてきました。しかし第一次世界大戦で大きな転機が訪れます。
長引く戦争で経済的困難に陥ったイギリスが、ユダヤ人財閥ロスチャイルドに融資を申し込んだのです。その代わりにイギリスは、ユダヤ人のために国をつくると約束しました(バルフォア宣言)。世界中のユダヤ人は喜び、自分たちの祖先がいた土地に集まりイスラエルを建国するのですが、その土地には既にパレスチナ人が住んでいました。当然パレスチナ人の反感がありましたが国連監督の下、パレスチナは分割されイスラエルが建国されます。
その結果パレスチナ人は、イスラエルから追い出される事になります。パレスチナ人がイスラム教徒である事も手伝い、イスラム教徒の多い周りの国では、反イスラエル感情があるのです。
イスラエルにとって、イラク政権が倒れれば、地理的にイスラム教徒の脅威が一つ減ります。味方するイランもイスラム国家ですが、イスラエルにとっては近場のイラクを倒す事が先決です。そのためイスラエルは、イラン・イラク戦争に於いてイランの味方をしました。
イラクの味方 |
・アメリカ
イランの王族と、石油取引による密接な関係がありましたが、イラン革命によりイスラム教シーア派の民衆に政権を奪取されたため、イランとの関係が崩れます。これを取り戻すためイラクに味方しました。
ちなみに、イスラエルを通じてイランにも武器を輸出していました。敵味方両方に支援を行っていたわけです。歴史を見てみるとアメリカは、戦争により経済活性をはかる事がよくあります。、自国の利益に応じて主義主張を変えるため、「ダブルスタンダードだ!」と批判される国でもあります。
・欧州
アメリカに歩調を合わせる形でイラクに味方しました。特にイギリスは中東と因縁が深い国です。1909年にアングロ・イラニアン石油会社をイランで立ち上げ、イランにおける石油の利益を独占していましたが、1951年にイランが推し進めた油国有化政策により、これを失っています。
また、中東が荒れているのは、第一次世界大戦でイギリスが行った三枚舌外交が原因であるため、アメリカやイスラエルと歩調を合わせるのは自然な流れでした。イギリスが行った三枚舌外交は以下の3つです。
- フサイン・マクマホン協定⇒オスマン帝国からのアラブ民族の独立を約束した協定
- サイクス・ピコ協定⇒イギリス、フランス、ロシアでオスマン帝国を分割して植民地化する協定。
- バルフォア宣言⇒ユダヤ財閥ロスチャイルドに資金援助を求め、その見返りとしてパレスチナにおけるユダヤ人の居住区建設を約束した協定。
ソ連
アメリカと冷戦の最中だったソ連は、最初はイランに味方しようとしていました。しかしイランがこれを拒否し、イラン国内の共産党を弾圧したため、ソ連はイラク路線に切り替えました。
イランがソ連を拒否した理由は、ソ連が無神論を推進していた事にあります。ソ連は社会主義の国です。「社会主義は科学的・論理的に実行が可能だ」とソ連は考えていました。その考えでいくと、神や宗教は科学的・論理的ではない為、国の方針として無神論を推し進めていたのです。当時のイランはイスラム革命で王族を倒したので、トップは宗教家のホメイニ師であり、ソ連の無神論とは相容れない考えでした。
イランとの共同戦線を張れないソ連は、イラク支持へ方向転換します。もともとソ連とイラクは同盟関係にありました。しかし経済発展を目指していたイラクは、ソ連だけでなく欧米各国とも関係を結ぶべく、ソ連との関係を薄めていこうとしていました。しかしソ連との関係が長かったため、イラクにある武器はその大半がソ連製。イラクが戦争に勝つためには、ソ連の協力が必要不可欠でした。
イラン・イラク戦争開始直後のソ連は、イラクの支援要請を無視していました。これはイラクをソ連側に引き戻す駆け引きであると同時に、イランにも影響力を持つべく、同国と接触していた為です。イランがソ連との共闘を拒んだので、ソ連は1982年にイラク支援一本に切り替えたのです。
そのままイラク支援一本でいくと思いきや、1986年8月にソ連はイランと天然ガス協定を結びます。ソ連がイランの石油精製施設の改修及び、カスピ海南岸の油田開発に技術協力をし、その代わりにイランがソ連にガスを供給するといった内容でした。さらに同年12月にはイランとソ連は経済協力協定を結んでいます。ソ連にとって重要なのは勝ち負けではなく、近隣諸国に影響力を持つ事なのです。アメリカは「ダブルスタンダードだ!」とよく批判されますが、ソ連はソ連で、戦争をする両国に武器を輸出する「死の商人」としての顔があり、やっている事はアメリカと同じです。
※社会主義とは国内のあらゆる生産を政府で管理し、富を平等に分けるという思想です。共産主義はそれの発展形で、最終的に管理する政府すらいなくなる状態を目指しています。
ヨルダンやサウジアラビア、クウェートなど湾岸諸国
イランのイスラム革命が自国に飛び火する事を恐れて、イラク支持に回りました。地理的にこの3カ国とイランは、イラクを挟んだ所に位置しています。イランの宗教革命が飛び火すれば、自分の国も大混乱に陥ってしまうため、イラクを盾にそれを食い止める必要がありました。
サウジアラビアとクウェートは、石油が出るので経済が潤っています。欧米に輸出しているため、欧米支持のイラクを味方するのは自然な流れです。サウジアラビアはサウド家による独裁国家。クウェートは一応、立憲君主制の国ですが、実際はザバーハ家を主体とした独裁政治です。イギリスとの繋がりも深く、第一次世界大戦でイギリスの後援を受け、オスマン帝国からの独立のために戦いました。
ヨルダンは石油などの天然資源が出ない為、経済力が無い国です。ですがクウェートと共に、サイクス・ピコ協定によりイギリスの統治下にありました。そのためイギリスとの繋がりが強い国です。
イラン・イラク戦争は終了したが・・・・・ |
イラン・イラク戦争は各国の思惑の中、実に8年間も続きましたが、勝敗の決着がつく事はありませんでした。1988年8月20日にイランの国連決議受託を持って停戦が決定。1990年9月10日にイラン・イラク間で国交が回復します。この時を持って、イラン・イラク戦争は終結となりましたが、これは新たな戦争の序章に過ぎませんでした。
この戦争でイラクは実に600億ドルもの負債を抱えてしまいました。戦争により経済が疲弊しているイラクにとって、この負債はかなりの負担でした。当然、アメリカへの返済が滞ってしまいます。するとアメリカは、イラクへの食糧の輸出に制限を掛けてしまいました。簡単に言うと
「お金を返せないのなら、助けるのやめちゃうよ」
とイラクに圧力を掛けたわけです。食料をアメリカに頼り切っていたイラクにとって、これは大きな痛手でした。さらにアメリカは、イラクへの工業部品の輸出にも制限を掛けます。イラクは収入の大半を、石油の輸出に頼っていました。工業部品をアメリカが売ってくれないので、頼みの綱である石油の採掘や輸送にも影響が出てしまいました。
しかし普通に考えれば、戦後間もなくのイラクが、すぐに借金を返せるはずがありません。経済の復興を待たずして圧力を掛ければ、イラク経済が疲弊していくのは火を見るより明らかでした。それではアメリカは何故、イラクに対して経済的な圧力を掛けたのでしょうか?それはイラクの復興を待つより、圧力を掛けた方がアメリカにとって得だからです。アメリカにとってのメリットは以下の2つです。、
- イラク政府が弱まれば、政治的に介入し乗っ取ることが出来る。
- 仮にイラクに宣戦布告されても、軍事的に制圧することが出来る。
つまり、のんびりとイラクの復興を待って債権を回収するよりも、支配して石油の利権を手に入れる方が得だと判断したわけです。かつてイランに対してやってきた政策をイラクにもやろうとした訳です。アメリカが経済的圧力を掛けた結果、イラクの経済はどんどん疲弊していきました。
湾岸戦争の背景 |
1990年8月2日、イラン・イラクの国交が正常化する約1ヶ月前。イラクはクウェートに戦争を仕掛けました。湾岸戦争です。戦争の原因は石油でした。
当時のイラク経済は、アメリカの制裁により疲弊していました。それに打ちを掛けたのが石油価格の下落です。当時の石油価格は、1バレル15ドルとかなりの安値で取引されていました。イラク経済は石油の輸出に頼っていたため、この下落は大きな痛手でした。そのためイラクはOPEC(石油輸出機構)に対し、石油価格を1バレル25ドルに引き上げるよう訴えました。しかしその訴えは退けられます。特にサウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦は石油価格の引き上げに反対していました。何故でしょう?
OPECは1960年にイラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、ベネズエラの5ヶ国により設立された石油の生産・価格カルテル(企業連合)です。その後アラブ首長国連邦、カタール、リビア、アルジェリア、ナイジェリア、インドネシアが加盟します。OPECの目的は中東の石油産出国の利益を守る事でした。
1960年当時は、第二次世界大戦以前の影響が色濃く、中東は欧米諸国の支配を受けていました。そのため、石油の売り手である中東よりも、買い手である欧米諸国の立場が強く、中東諸国は欧米の言い値で石油を輸出していました。
この状態を打破すべく、中東の石油産出国はカルテルを結び、欧米諸国に対抗しました。その結果、莫大なオイルマネーが生まれ、中東は経済的に潤い始めます。特にサウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェートは儲けに儲けまくりました。そのお金をアメリカ金融市場の先物取引などに投資し、さらに利益を得ていました。つまりサウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦は、OPECの一員でありながら、アメリカと経済的に密接な関係にあったのです。これが石油価格の引き上げに反対していた理由です。薄利多売でエネルギー市場を独占し、金融の面でもアメリカと密接な関係にあったので、経済悪化に苦しむイラクの訴えに耳を貸さなかったのです。
サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦は、OPEC(石油輸出国機構)の割当量を超えて石油の増産を行なっていました。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていましたが、サウード家(サウジアラビアの現王家)の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていました。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全に無視して、石油を大量に採掘しました。その結果、原油価格は値崩れを起こしたのです。
イラクは特に、クウェートのルマイラ油田における石油採掘に抗議しました。ルマイラ油田は、イラク南部とクウェートをまたがっている油田です。この油田は地下で繋がっているので、クウェートが大量に石油を売れば売るほど、イラクの石油も減ります。1つのコップのジュースを、2本のストローで奪い合っている状態です。
イラクの訴えにより、アラブ首長国連邦は石油増産を縮小しましたが、クウェートはそれを無視しました。イラクはクウェートを批判しましたが、これに対してクウェート政府は、イランイラク戦争の際に無償援助した100億ドルを一括返済するようイラクに迫りました。緊迫した事態に周辺のアラブ諸国が仲介に乗り出しましたが、イラクの怒りは収まりませんでした。
ついに湾岸戦争勃発 |
1990年8月2日午前2時(現地時間)。イラクはついにクウェートに侵攻します。イラクの兵力は戦車350両、装甲師団10万人。クウェートの兵力の50倍とも言われています。イラクの圧倒的兵力と奇襲により、午前8時にはクウェート占領が完了しました。
同日の8月2日。イラクの軍事侵攻に対し、国連は即時無条件撤退を求め、8月6日には経済制裁を行う決議も採択しました。軍事侵攻により石油市場には不安が広がり、石油価格は一気に高まりました。しかしイラクは経済制裁のため、その恩恵にあずかる事ができませんでした。
8月7日。アメリカはサウジアラビアへ圧力をかけ、アメリカ軍の駐留を要求します。サウジアラビアとしても、石油の過剰輸出でイラクと対立しており、クウェートに続き自国を侵略される恐れがあったため、アメリカの要求を認めました。更にアラブ種等国連邦、オマーン、カタール、バーレーン、といった湾岸産油国もイラクの軍事進攻を恐れ、アメリカに同調しました
ちなみに、アメリカ軍のサウジアラビア駐留は、多くのムスリム(イスラム教徒)にとって衝撃的な事でした。サウジアラビアには、聖地メッカがあります。ムスリムにとって、異教徒がこの聖地に足を踏み入れるなど許し難い事でした。この出来事は、敬虔なイスラム教徒であるオサマ・ビン・ラディンが、2001年にアメリカで起こした9.11同時多発テロのきっかけとなります。
さて、イラク軍と戦ったのはアメリカを中心とした多国籍軍でした。国連軍で戦っては、アメリカは主導権を握れません。戦争の後にイラクの石油利権を手に入れるには、国連の介入は邪魔でしかありません。そのためアメリカは「有志を募る」かたちで多国籍軍を結成し、イギリスやフランスはこれに続きました。さらにエジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ諸国もアラブ合同軍を結成し、これに参加しました。
国際世論を味方につけるアメリカ |
国際世論を動かすために、一人の少女の証言が大きな役割を果たしました。クウェート人ナイラによる証言、通称「ナイラ証言」です。1990年10月10日、アメリカ下院トム・ラントス人権委員会で行われたこの証言は、当時の人々にとって衝撃的なものでした。
ナイラ(当時15歳)の証言は、「イラク軍のクウェート侵攻後、イラク兵がクウェートの病院で、保育器に入った赤ん坊を皆殺しにした。」といったものでした。この証言は何度もテレビで放映され、「イラク=悪」と誰もが思いました。国際世論を味方につけ、アメリカ人は自分たちが正義であると信じて疑わなかったのです。当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領(ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の父親。通称パパブッシュ)はフセイン大統領を「ベビキラー」と呼ぶなどして世論を煽り、アメリカ参戦の気運を高めていきました。
この時代は、まだまだインターネットが普及しておらず、マスコミもクウェート国内に入る事が出来なかったので、ナイラ証言は唯一の信憑性のあるものとされました。しかし湾岸戦争終結後、この証言が嘘だったと分かります。
1991年4月に、イラクが「国連安保理決議687」を受理した事で、湾岸戦争は停戦となります。その後マスコミ各社は「ナイラ証言」の裏づけを得るため、クウェートの病院を取材しました。しかしイラク兵の残虐な行為を目撃したクウェート人は誰もいませんでした。さらに当時のクウェートの病院には、保育器が数える程しかありませんでした。
さらにマスコミの取材で、「在米クウェート大使館の職員の娘」であったことが判明します。ナイラの父親の名前はサウード・アン=ナーセル・アッ=サバーハ。当時のクウェート駐米大使で、クウェートの王族であるサバーハ家の一員です。つまり「ナイラ」は湾岸戦争の時にはアメリカにいて、イラク兵による残虐行為など見ていなかった事になります。それでは何故、ナイラはこの様な嘘の証言をしたのでしょうか?
パパブッシュは戦争する理由が欲しかった |
上記の「イラン・イラク戦争は終結したが・・・・」でお伝えした通り、アメリカはイラクを軍事的に支配し、石油の利権を手に入れるのが目的でした。しかしアメリカ国内では、パパブッシュの支持率が40%まで大きく下がります。アメリカ国民の多くは、湾岸戦争に反対していたのです。支持率を上げるにはどうすれば良いか?ブッシュ政権(パパブッシュ)は悩みます。そこに絶妙のタイミングで「ナイラ証言」が出てきます。残虐非道なイラク兵と、可哀想なクウェート市民。この構図は、湾岸戦争を正当化する上で打ってつけでした。
さて、クウェートの視点で見てみましょう。クウェートとイラクは両国の国境をまたがるマイラ油田の利権を争っていました。クウェートが石油を過剰に採掘したために、イラクが怒ってクウェートに侵攻したわけです。クウェートとイラクの戦力差は大きく、イラクを止めるには他国の力を借りるしかありません。一番手っ取り早いのは、アメリカの力を借りる事です。アメリカ政府はイラク侵攻に前向きですから、アメリカ世論を戦争賛成に向かわせれば、アメリカ政府としても戦争をやり易くなるはずです。その為にはどうするか?そんなの簡単です。アメリカ人に、自分たちは正義のヒーローであると思わせれば良いのです。
「それをPR出来る映像を作ろう!!」
と言う事で、クウェートはアメリカの広告代理店「ヒル・アンド・ノウルトン」に、アメリカ人がヒーロー気分を味わえる映像を依頼しました。ちょうど良く、在米のクウェート大使の娘が役者志望だったので、悲劇のクウェート人として起用したわけです。今となっては、この映像撮影がアメリカ主導に依るものか、クウェート主導なのかは分かりませんが、結果として湾岸戦争に勝利したパパブッシュの支持率は、歴代最高の89%まで上昇します。
この他にも、アメリカ海兵隊の沿岸上陸を阻むために、イラク軍がペルシア湾に400億ガロンもの原油を流出させたとして、大々的に報道されました。石油まみれになった水鳥の写真が、イラク軍の環境破壊によるものだと印象付け、当時は大きな話題となりました。
しかし、この石油の流出の30~40%は、多国籍軍のイラク沿岸部への攻撃により流出したものでした。
ここまでやられたら、そりゃイラクも怒ります。 |
1991年4月にイラクが「国連安保理決議687」を受理し、イラクの敗戦が確定します。その後のイラク戦争までの大まかな流れは
- 1999年1月 ユーロ誕生。ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、アイルランド、ポルトガル、スペイン、オーストリア、フィンランドの11カ国で導入される。アメリカはITバブルの真っ最中。
- 2000年11月 イラクのフセイン政権が、石油取引をドルからユーロに転換。 国連の人道支援「石油食料交換プログラム」もユーロで実施。
- 2000年12月 アメリカITバブル崩壊。
- 2001年9月 アメリカ同時多発テロ発生(9・11テロ)。湾岸戦争の際アメリカ軍が、イスラム教の聖地「メッカ」のあるサウジアラビアに足を踏み入れた。その事に怒った敬虔なイスラム教徒である「オサマ・ビン・ラディン」が引き起こしたテロ。
- 2002年1月 アメリカのブッシュ政権はイラン、イラク、北朝鮮をテロ支援国家とし、悪の枢軸発言。
- 2003年3月 アメリカがイラクに戦争を仕掛ける(イラク戦争)。その後、石油取引をユーロからドルに戻す。
といった時系列になっています。1979年のイランイスラム革命からここまで。これだけの事をアメリカにされたのですから、イラクが怒るのも無理がありません。アメリカを潰すのに絶好な通貨であるユーロに飛びついたのも頷けます。ユーロの話は、前回のこちらのブログで説明しています。ISIL(イスラム国)を分析1。(ユーロとイラク戦争)
まとめ |
これでイランイスラム革命から、イラク戦争までの大まかな流れは終わりです。短くまとめるつもりが、思わぬ長文になってしまいました。誠に申し訳ないです。次回はようやく、「イスラム国(ISIL)がどの様にして生まれたか?」を解説していきたいと思います。今度は短くまとめます。・・・・・・・・たぶん(笑)
お勧め記事
ISIL(イスラム国)を分析1。(ユーロとイラク戦争)